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自邸 三六九庭(みろくてい)

今回は自らの鑑賞用として、そして日本庭園の施工をご検討されているお客様のために、自邸内に作庭をいたしました庭園のご紹介です。有効面積は九坪とそれほど大きくはございませんが、当研究室の技術を多く折込んだ庭園となっております。

「作庭のテーマについて」

本庭は、辰巳(南東)の方角に三六九という数で構成した蓬莱神仙(ほうらいしんせん)の世界観を山水画的枯山水で表現したものです。

「蓬莱神仙」とは古く紀元前の中国,燕,斉地方で起こった土着信仰で,東方海上に蓬莱神仙世界※1があるとし,蓬莱,方丈,瀛州(えいじゅう)の三島などが想定され、これらの島は神仙島ともいわれ,そこには宝物や不老不死の仙薬が蔵されていると説かれました。このような説は,方士という人々によって広められ,秦始皇帝などは多くの方士に仙薬を求めさせました。一説に,この蓬莱神仙世界は,日本であるとも言われています。以後中国においても日本においても,庭作りのテーマとして広く用いられています。

用語
※1 蓬莱神仙思想(ほうらいしんせんしそう)

蓬莱島・蓬莱山ともいう。中国の神仙思想で、方丈・瀛洲とともに三神仙島とされた。東海のなかにあって神仙が住み、不老不死の地と考えられた仮想の海島で、巨大な亀の背中に載った島との解釈もあった。

中国では、紀元前2世紀に前漢の武帝が太液池に蓬莱をはじめとした神仙島を築いたことが『漢書』に見え、さらに6~7世紀に築造された唐の大明宮の太液池でも蓬莱島が築かれるなど、中国の皇帝庭園ではきわめて重要な要素であった。

神仙思想は日本には百済などを通じて飛鳥時代に伝えられ、飛鳥京都跡苑池遺構の南池の島などは、蓬莱をモチーフとしていた可能性がある。奈良・平安時代にも、園池の島が、蓬莱などの表現を意図したものであることも少なくなかったと見られ、平安後期の鳥羽離宮庭園の園池については「或いは蒼海を模して島を作り、或いは蓬山を写して巌を畳む」(『扶桑略記』)といった表現が見られる。

それ以降も園池の島を蓬莱と見立てる風潮が続き、江戸時代には多くの園池で蓬莱島が築かれることになる。蓬莱が海中の島であることに鑑み、橋を架けないことを原則としたが、回遊などの便宣上架橋されることも少なくなかった。また、マツを植えるのが通例で、蓬莱と亀の関係から、亀島との習合も見られる。

「石組について」

中央は十二石組の蓬莱(ほうらい)

蓬莱島は平面地割りを抽象化した亀にかたどり、左手に斜立石(しゃりつせき)の亀頭石を配する峻険な石組です。

右側は九石組の方丈(ほうじょう)

方丈島は、室町様式の低く据えた石橋と橋挟石(はしばさみいし)、手前は出舟形式の舟石(ふないし)、更に手前は遠近法を使った岩島(がんとう)です。

左側は六石組の瀛州(えいじゅう)

古来中国では日本の国を東瀛(とうえい)と呼んでいたことから六石組の瀛州(えいじゅう)としました。瀛州島は、蹲踞(つくばい)形式に全て平天石(へいてんせき)で組み、豪華な前石(まえいし)台石(だいいし)で浮かせ、海の下に埋設した水琴窟(すいきんくつ)は筧(かけひ)からの水量によって音の変化が楽しめます。尚、台石は石橋の下が二石、前石の下が四石で全て合わせると三十三石です。

上記三つで三神山(さんしんざん)となります。

「垣・植栽他について」

植栽は、赤松の天目松(てんもくしょう)を三本とし、地面は自宅や近所で集めたコケ張り六山と水を表現した白川砂です。

竹垣は南側九面と東側六面の計十五に分けた創作的な文字垣(もじがき)で、施工者のサトル・ヒロシ・ヤエモンの名が隠れています。

北側の市松垣(いちまつがき)は、竹の割間が二十七升、杉皮が三升の構成で、割竹の幅に変化を持たせ、屏風の様に折り込みます。

玉縁(たまぶち)の笠竹(かさだけ)や杉皮の遊びを入れ、出入り口の杉皮垣(すぎかわびき)は割間に一二三(ひふみ)を用い押縁(おしぶち)の割竹は全部で十二本です。西側の袖垣(そでがき)は三枚、三本飛ばし網代垣(あじろがき)押縁スワマと削ぎ落としです。

この庭園の最大の特色は、風を回し、隅を開けることでゴミが溜まらず、夏は天然の涼風が吹き込みます。また、蹲踞形式は手水鉢を用いないことから、やぶ蚊対策にもなります。

この庭が、多くの来客者様の鑑賞となれば幸いです。

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