十川日本庭園研究室のブログにお越しいただき、誠にありがとうございます。こちらでは、当研究室が行っている日本庭園の作庭技術、作品や全国にある日本庭園のご紹介を通じて、日本庭園の情報を発信して参ります。一般の方は勿論のこと、造園関係者様等のご参考になれば幸いです。
第一回の今回では平成19年の6月に施工させていただきました「S氏邸 枯山水庭園」のご紹介をさせていただきます。なお解説が解りづらいという意見がありましたので、写真とコメントを増やしました。
「作庭のテーマについて」
本庭は、施工主様が新たな土地に居を構えた事、並びに母屋の東側に位置する事から「四神相応の青龍(しじんそうおうのせいりゅう)」をテーマとした設計です。四神相応とは、地相を天の四神に応じた最良の土地柄から
東は青龍(せいりゅう)の青、南は朱雀(すじゃく)の赤、西は白虎(びゃっこ)の白、北は玄武(げんぶ)の黒とし、
これは中国思想で大陸全図を見れば川は全て東に流れ、その先は海であり、
東は水の守り神である龍神から青龍、
南は太陽信仰と鳳凰の変化である朱雀、
西には、山岳地帯から頻繁に危険な虎が出没したことから白虎、
北の黄河流域は、湿地帯で蛇や亀が多く生息していたことから玄武となり、
中央は皇帝が纏う黄色で、土そのものの色を地上の最高とされました。
その昔、桓武天皇がこれに基づき延暦年間、平安遷都したという記録があります。古来より多くの作庭にも用いられ、世界最古の作庭秘伝書である作庭記(さくていき)(前栽秘抄せんざいひしょう)※1に於いても「青龍の東北より水を流し、南の朱雀に池を穿つ」と記され、大河ドラマ源義経でおなじみの岩手県平泉にある毛越寺(もうつうじ)にもその様式を見ることが出来ます。
用語
※1 作庭記(前栽秘抄)
日本最古の作庭書。世界的に見ても、まとまった作庭書としては最古級である。記述はおもに寝殿造庭園(しんでんづくりていえん)を念頭に置いたものであり、平安時代中期に編纂(へんさん)されたと見られる。鎌倉時代には『前栽秘抄(せんざいひしょう)』と称され、藤原氏によって所蔵されていたが、近世にいたって加賀前田家の所有するところとなり、秘蔵されていた。
『作庭記』の書名は江戸時代になってからのもので、塙保己一(はなわほきいち)の編纂で18世紀末から順次刊行された『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』により広く流布した。構成は一貫した方針ではないが、「石を立てん事、まづ大旨を心ふべき也」「石を立つるには様々あるべし」「島姿の様々をいふ事」「滝を立つる次第」「遣水の事」「立石口伝」「禁忌といふは」「樹の事」「泉の事」「雑部」などの項目に分けられる。
冒頭の「石を立てん事……」では、作庭にあたっては「生得の山水(しょうとくのさんすい)」を規範とすべきこと、「国々の名所を思ひめぐらして」庭園デザインに取り入れるべきこと、の3点をあげており、自然風景を尊重した基本的な作庭思想とともに、過去のすぐれた作例に学ぶという姿勢がうかがえる。
一方で、石の取り扱いや遣水(やりみず)・植栽に関しては、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)や四神思想(しじんしそう)に基づいた禁忌(きんき)が多数記載されている点も、当時の作庭のあり方を考えるうえで見逃せない。編纂者についての確定した説はないが、藤原頼通(ふじわらのよりみち)の三男で修理大夫を務めた橘俊綱(たちばなのとしつな)が、幼少の頃から見聞した高陽院庭園(かやのいんていえん)など寝殿造庭園(しんでんづくりていえん)の工事に関する豊かな経験や鋭い自然観察をもとに編纂した、とする説が有力である。
「石組(いわぐみ)について」
枯流れ(かれながれ)の地割りは龍をイメージしたもので、石組は全て群馬県の三波青石(さんばあおいし)で構成されています。
瀧石組(たきいわぐみ)は水墨山水画的(すいぼくさんすいがてき)な構成とし中国の伝説にまつわる「龍門瀑(りゅうもんばく)」、すなわち鯉の瀧登りとしました。三級浪を登り切った鯉は龍と化す故事から、日本でも五月五日の端午の節句に鯉のぼりを立てる風習があります。
- 枯滝石組の龍門瀑
子供の出世を願うもので、それに因んで下段に「鯉魚石(りぎょせき)」を組み、瀧正面には筑波石(つくばいし)で「礼拝石(らいはいせき)」※2を据え付けました。
尚、正面から左手への石組は祝儀思想で七五三に石を組み、流れの端末は「蓬莱神仙思想(ほうらいしんせんしそう)」※3の仙人が住むといわれる「洞窟石組(どうくついわぐみ)」の構成です。
- 奥に並んだ七五三石組
- 洞窟を兼ねた七石組
- 平天石の五石組
- 特殊な三石組とビャクシン
また、和室正面手前の寄り添う二石は「夫婦石(めおといし)」となります。
- 夫婦石と五石組
- 夫婦石と洞窟、手水鉢
用語
※2礼拝石(らいはいせき)
「れいはいせき」とも読み、また「拝石(はいせき)」ともいう。*役石(やくいし)のなかでも重要とされるものの一つ。*三尊石(さんぞんせき)などを礼拝するために置かれるもので、大型の*平石(ひらいし)を用いる。池の岸、また*枯山水ではそれに相当する位置に据えることが多い。江戸時代の初頭頃から盛んになったもので、*金地院庭園(こんちいんていえん)のものは特に有名である。
※3 蓬莱神仙思想(ほうらいしんせんしそう)
蓬莱島(ほうらいとう)・蓬莱山(ほうらいさん)ともいう。中国の神仙思想で、方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいじゅう)とともに三神仙島(さんしんせんとう)とされた。東海のなかにあって仙人が住み、不老不死の地と考えられた仮想の海島で、巨大な亀の背中に載った島との解釈もあった。
中国では、紀元前2世紀に前漢(ぜんかん)の武帝(ぶてい)が太液池(たいえきち)に蓬莱をはじめとした神仙島(しんせんとう)を築いたことが『漢書(かんじょ)』に見え、さらに6~7世紀に築造された唐の大明宮の太液池でも蓬莱島が築かれるなど、中国の皇帝庭園ではきわめて重要な要素であった。
神仙思想(しんせんしそう)は日本には百済(くだら)などを通じて飛鳥時代に伝えられ、飛鳥京跡苑池遺構(あすかきょうあとえんちいこう)の南池の島などは、蓬莱をモチーフとしていた可能性がある。奈良・平安時代にも、園池の島が、蓬莱などの表現を意図したものであることも少なくなかったと見られ、平安後期の鳥羽離宮庭園(とばりきゅうていえん)の園池については「或いは蒼海を模して島を作り、或いは蓬山を写して巌を畳む」(『扶桑略記(ふそうりゃっき)』)といった表現が見られる。
それ以降も園池の島を蓬莱と見立てる風潮が続き、江戸時代には多くの園池で蓬莱島が築かれることになる。蓬莱が海中の島であることに鑑(かんが)み、橋を架けないことを原則としたが、回遊などの便宣上架橋されることも少なくなかった。また、マツを植えるのが通例で、蓬莱と亀の関係から、亀島との習合も見られる。
「袖垣・植栽他について」
袖垣(そでがき)は下山の文字をくずした杉皮の「文字垣(もじがき)」※4とし、外周を囲う生け垣はアラカシで、外観を遮蔽することにより斬新な別世界を表現しようという試みです。
- 杉皮を用いた文字垣
正面の洗い出しは末広がりの扇面を象ったもので、手水鉢の下部には「水琴窟(すいきんくつ)」※5を設けてあります。
「手水鉢(ちょうずばち)」※6後方には媚薬(びやく)とされる梅の木を配し、松と石組後方にあるビャクシンは中国で言う松柏となり、また竹垣を含め松竹梅の構成です。
- 洗い出しと手水鉢
- 手水鉢、筧、梅ノ木、七五三石組
南側の園路は洗い出しに一二三石(ひふみいし)を散らしたもので、修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)にその例があります。
- 一二三石と洗い出し
尚、当代当主の一字を賜り「久龍庭(きゅうりゅうてい)」と命名いたしました。
本庭が時を経て万人の鑑賞となれば幸いです。
※参考文献:岩波 日本庭園辞典
用語
※4 文字垣(もじがき)
竹垣に押縁(おしぶち)で文字を表現したもので、字を崩した創作的なものが多い。
※5 水琴窟(すいきんくつ)
蹲踞(つくばい)の排水装置の一つで、庭園における音響装置の役割をもつもの。排水穴の下に瓶を伏せる形で埋め込み、吸い込み穴から滴り落ちた水が、伏せ瓶に反響して立てる音色を楽しむ。その音色を、琴の音に擬して命名。起源の詳細は明らかではないが、江戸時代中期頃から庭園に設けるようになったといわれる。
※6 手水鉢(ちょうずばち)
手を洗い、口をすすぐために水を入れておく鉢。水鉢とも呼ぶ。銅製や陶磁器製のものもあるが、おもに石造で、元来は、社寺で参拝に際し身を清める目的で、角形のものが用いられていた。
庭園に手水鉢が持ちこまれたのは、*露地(ろじ)の形式が整ってきた:千利休の頃と見られる。はじめは自然石や石臼に穴をあけたものが用いられ、利休の考案により、石造(せきぞう)の宝塔(ほうとう)や*層塔(そうとう)の塔身(とうしん)に穴をあけた見立物(みたてもの)も登場する。さらに、江戸時代には様々なデザインの手水鉢が創作されるようになり、庭園の添景物(てんけいぶつ)としての要素も併せ持つようになる。
手水鉢には、露地の蹲踞(つくばい)の中心をなす蹲踞手水鉢と、建物の縁先に置かれる縁先手水鉢(えんさきちょうずばち)の二つのタイプがある。前者は、文字通り身をかがめて(ツクバッテ)用いるため低く仕上げて地面に生け込むことが多い。一方、後者は、地面より高い縁からの使用を前提にするため高い仕上げとし、通常台石の上に載せる。江戸時代中期の『*築山庭造伝(つきやまていぞうでん)(前編)』には、*円星宿手水鉢・*富士形手水鉢・*石水壺手水鉢など8種が紹介されている。
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